善入寺島の工事の経緯



雑なまとめ
・三大暴れ川と称される程の洪水が多い地域。
・幕末から明治にかけて堤防の整備が行われるが、2回中断されてる。
・善入寺島は日露戦争後の改修の際、無人島とされた。



善入寺島の旧名は粟島。
忌部属が粟を生産した地で、阿波の名の発祥とも言われる。
吉野川は上流が多雨地帯で川筋が台風の通り道と一致してるため洪水が多い。
1098年の洪水で川筋が2つとなり、粟島の地は川中島となった。
洪水による肥沃な土壌で、明治の終わり頃まで藍が栽培されていた。
逆に米作には向いておらず、洪水を克服しなければ無理だった。


幕末以前の吉野川は連続堤防は無く、小規模な堤防等で洪水被害を軽減する仕組みだった。
ただしこれは水除け争いが発生する場合もあった。
善入寺島の下流(東)に覚円と言う、水除け争いが絶えない地があった。

明治7年
上流の連続堤防による影響等から未整備地域に被害が集中していた(現代は下流から工事が鉄則)。
名東県(当時)は堤防整備の必要性と緊急性から、覚円堤防の建設計画を立てる。
覚円は中州があり、増水時は中州入口の八ヶ村堰で南の支流に水を逃がす仕組みだった。
初期案は住民の反対が出たため、八ヶ村堰と支流を塞ぐ形で堤防を築く案が採用された。

明治8年(八ヶ村堰訴訟)
しかし本流に設けられた堤防はなぜか狭窄部が存在するため、危険であると別の住民が訴訟。
(狭窄部は明治21年の改修中に決壊)。
住民が県に勝訴したが、明治13年に県が徳島県に変わり曖昧になった。


明治17年
工事再開の前に、ヨハネス・デ・レーケが吉野川を調査、洪水にも会っている。
デ・レーケは上流の治山、下流放水路の本流化等を提案。
覚円堤防の狭窄部は最悪と評価し、撤去を提案。

明治18年
国が低水工事と砂防工事を、県が高水工事を並行して担当。
(明治初期の政府は船運を重視しており、日露戦争終結後に治水も担当する様になった)。
覚円堤防の前面に低水工事として沈床工を設置。
沈床工は洗掘(堤防が水に削られる事)を防止する効果がある。
ただし舟筏が引っかかるため評判は悪かった。


明治21年(覚円騒動)
7月と9月に、石井町西覚円で狭窄部の改修中だった堤防が決壊。
堤防建設の遅れと低水工事による人災であるとして、被災住民が県庁に押し掛ける騒ぎとなった。
堤防改修費と救済金、計7万円が国庫から補助される事で収束。
県議会は工事は有害無益であるとし中止を決定(堤防建設の遅れはどこに行ったかね?)。
今度は前にも増して暴れ川となったので明治40年に工事再開を決定。



明治40年(吉野川第一期改修工事)
デ・レーケの案をベースとした改修案を実施。
その中には、善入寺島(当時の名は粟島)住民の移転計画も含まれていた。
理由は島の堤防が流れを妨げるので撤去し、島全体を遊水地(洪水を素通りさせる)とするため。
(デ・レーケの案には含まれていない)。
(上流の昭和の改修では舞中島は堤防強化、中鳥島は住民退去の上神社残存)。

明治42(1909)年
善入寺島に内務省から遊水地化計画を説明、反発を受けるが最終的には合意。

明治45年
内務省大阪土木研究所から計画変更を発表(この場合、宮島八幡宮は川の中になる)。
内務本省とは考えが異なるため話し合いの末、遊水地化計画に戻る(何この反復横跳び)。
買収価格は驚きの安さ(75万円。現在だと1人当たり300〜400万?)。事務は大正2年に終了。

大正4(1915)年
善入寺島の約500戸のうち残り400戸に対して強制退去命令が出る。
宮島八幡宮があった岩場は採石場となる(具体的な年代は知らない)。

昭和2年
善入寺島の掘削工事完了。
現在は居住者はおらず、畑として使用されている。


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